不確定なぼくらは。

第9話

 当然のように直人のいない夜の食卓。ぽっかりと空いた席を秋人はぼんやり見つめる。
 一乗寺家では、食事は家族揃ってが暗黙の了解になっている。比較的関係の良好な家庭だと思う。
 ずっとこのままなのだろうか……。
 どのみち直人は今年受験で、進学と同時にこの家からは離れて行くだろう。直人がこの家を出る予感はあったから、焦っていたのだ。結果的にあのことが決定打になるだろうことは想像に難くない。最初から決まっていたのだと思えば直人が家を出て行くことには諦めもつく。何もしなければ確かに良い兄弟のままでいられたのかも知れない。けれど秋人には、それでは満足できなかったのだから仕方がない。
 期待していなかったと言えば嘘になる。兄として秋人に接する直人は、本当に優しくて……。いつもみたいに、強く出れば最後には渋々ながらも折れてくれるのではないかという気持ちがどこかにあった。
「食べないの?」
 非難するようなきよみの冷たい声。秋人は面倒くさそうにそちらを一瞥する。本当にいちいちうるさい。口にするとまた絡まれるので、心の中で吐き捨てる。
「食欲、無いのか?」
 マコトがみそ汁をすすりながら訊ねて来た。秋人の箸が進んでいないのを目ざとく指摘したきよみの言葉を受けて、便宜的に聞いたような調子だ。そこに心配の色はなく、暗に促されているのだと理解して、秋人は思い出したように箸をつける。
「別に……ちょっと考え事」
 直人の席から視線を逸らしながらぶっきらぼうに答える。
「そろそろアレも、気が済んだだろう」
 一瞬の間の後、誰にともなくマコトが切り出す。秋人は耳だけをその声に傾ける。おそらくこれはマコトの隣で我関せずに食事を楽しんでいる忍に向けられたつぶやきだ。忍もそれに気付いたのか、わずかに眉をひそめてマコトを見る。
「それって、またボクに迎えに行けってこと?」
 あからさまに面倒そうに、若干批難の色を滲ませる。
「もう、好きにさせておけばいいじゃん。気が済めば勝手に帰って来るでしょ」
「しかしな……」
 なおもマコトが何か言おうとするが、忍の態度が変わる気配はない。
「マコちゃんは心配し過ぎなの! あの年頃の男の子は少し放っておくくらいでちょうど良いんだよ」
 普段はおっとりとした印象の忍だが、こんな時の頑固さは人一倍だ。昼間、久しぶりに言葉を交わした時の直人を思い出す。こういうところはなるほど、親子なのだと痛感する。
 忍に強く言いきられて、マコトもそのまま黙る。何か思案するように目を閉じたかと思うと、今度は天井を見上げて眉をひそめる。いつも、どこか達観したように落ち着き払っているマコトも、そう頻繁に家を空けるたちでは無い長男坊が3日も帰らないことに困惑しているのだろうか。
「あんなナリだけど、うちの親って案外亭主関白よね」
 秋人と同じように、聞くとも無しに二人のやり取りを聞いていたきよみがぼそりとつぶやく。いつもの刺のある態度では無く、どこか羨ましそうな口調だ。秋人も、これには素直に心の中でうなずいた。

 忍の持つ背を覆うほどの長髪と小柄な体型、優しい顔立ちに、マコトの持つスレンダーな長身と飾らない性格、それにさばけた口調で、大抵初対面の人間は間違える。むしろ本人たちが面白がって過剰に演出しているのでは無いかと思うふしすらあるのだが、一乗寺家の家長はまぎれもなく忍である。忍の言うことは絶対というのが暗黙の了解だ。見た目はなよなよしていても、家族の誰も軽んじたりしない。
 生まれた時からそれが当たり前だったから、特に疑問に感じたりはしなかった。時々同級生にお前の親は変わっているとからかわれたこともあったが、秋人はいつも仲睦まじい両親を、口にこそしなかったが誇りに思っていたから、気にしたこともなかった。
 ただ、直人は違ったらしい。家族のことをからかわれるのを極端に嫌がったし、ある時期を境に友達を家に招かないようになった。直人も、決して両親を毛嫌いしているわけでは無いはずなのだが、何かと言えば「もっと普通の家に生まれたかった」とぼやいていたのを覚えている。直人が家を出たがっていると感じるのは、そのせいもあった。
 その直人を持ってして、家に招くまでの親密さを見せる岸田への直人の信頼は相当なもののはずだ。
 思い出して秋人はムカムカした。
 岸田は良くて、自分では駄目なのか。
 直人の1番近くにいていいのは自分だと思っていた。だが実際は、秋人は拒絶されて、岸田は直人に触れることを許されている。気安く腕を掴んでも、慌てて振り払われたりしない。

「そんなことより、マコちゃんはもっとボクの心配をしてよ」
 秋人が悶々としている間にも二人の会話は続き、打って変わった忍の甘えた声が聞こえて来る。
「お前のどこに、心配しなきゃならない要素があるんだ」
 マコトは既に気を取り直して食事に箸を伸ばしている。口調はいつもの淡々としたもので、それ以上でも以下でもない。そのことが忍には不満らしい。ぷぅっと頬を膨らませて抗議する。
「どうせ子供たちなんてそのうちこの家から出て行っちゃうんだしさぁ、あんまり直人、直人だとボク、寂しくて死んじゃうかも知れないよ?」
「そうか、そりゃ大変だな。葬式はちゃんと出してやるから安心しろ」
 投げやりな言葉を返しながらも、マコトは子供をあやすような手で忍の頭を優しく撫でた。忍は不満そうに頬を膨らませたまま、だがそれで満足したらしい。素直にマコトに身体を擦り寄せている。もうこうなると子供たちには付け入る隙がない。一足先にたいらげた食事の皿を無言で重ねると、秋人は小さく「ごちそうさま」と言って立ち上がる。とても付き合っていられない。
 キッチンまで食器を下げに来たところで、少し慌てたようにきよみが追い掛けて来た。秋人の先を奪うようにシンクに自分の食器を収めると、つっけんどんに秋人へ手を差し伸べて来る。
「私が洗う」
 余計なことはするなとでも言いたげに睨まれて、秋人はムッとしながら「ああ」とだけ答えて食器を渡した。そのまま無言で食器を洗いはじめるきよみに引っかかるものを感じながら、それ以上話したいとも思えずに秋人は自分の部屋へと向かった。

-Powered by HTML DWARF-