不確定なぼくらは。

第8話

 昼間あれだけにぎやかだった教室も、日もすっかり暮れてしまったこの時間には廊下を通る影も無い。音楽室や美術室と言った部活動にも利用される特別教室ならばその限りでは無いのだろうが、今この場所にいるのは、秋人と、それからまだ見慣れない一人の姿だけ。
「こんな遅くまで、友達でも待ってるのか」
 突然もたらされた明かりに目が馴染まず、自分でも眉間に深い皺が刻まれているのがわかる。佐野に対して気遣う必要性も感じなかったから、秋人は構わずそのまま迷惑そうな視線を佐野に向けた。実際、詮索されるのは不愉快だった。特別親しいわけでも、親しくしたいわけでもない。
 しかし佐野は気にした風もなくそのままつかつかと窓際まで歩いていくと、先程まで秋人が向けていた視線の先、サッカー部が走り回る校庭に目を向ける。
「こんなに暗くなるまで、よく頑張るよなぁ。若いっていいな」
 そう言って、微笑んで秋人を見た。
 直人に似ている。
 そんなことを保に言われたからだろうか。その屈託の無い笑みが妙に胸をざわめかせる。
 直人となんて似ても似つかないのに。
 一瞬でも比べてしまった自分が腹立たしい。直人の代わりなんてどこにもいない。
 一言も返すこと無く秋人は再び窓の外を見る。別に話したいことなんて何も無いのだ。どのみち、あと数週間もすれば佐野はこの学校からいなくなる。そして二度と会うことは無いだろう。
「……僕はさ」
 そんな秋人の態度などお構い無しに、佐野が話しはじめた。一体何がしたいのだろう、と思うが、相手をするのが億劫で黙っている。話を聞かずに今すぐにこの場を立ち去ることも出来るが、わざわざ態度で示したいほどの反感も無い。興味なんて無い。そう、それだけだ。
「ほら、塚田先生が戻るまでの臨時採用だけど」
 心を見透かされているのかと思って一瞬ドキリとする。それをさとられないように秋人はなおも、夜間用の照明が灯り見通しの幾分良くなった校庭を見つめ続ける。
「いなくなるってわかってる相手の方が、話しやすいこともあるんじゃないかな」
 秋人はじろりと佐野を見る。何が言いたいのだと視線で批難する。こうして顔を合わせたのも数える程だというのに、教師として等という義務感で詮索するのならいい迷惑だ。
「あんた、いくつ?」
 あえて秋人は不躾な態度で訊ねる。苛立ちを隠しもしない。佐野は先程、校庭を見ながら「若い」と表現していた。どうひいき目に見ても大学を卒業したてと言った風貌に、大して違わないのにと馬鹿にする気持ちもあったかも知れない。
「いくつに見える?」
 ところが佐野は、まるで気付かない……むしろ楽しげな様子で、能天気にも逆に質問で返して来た。ここまで空気が読めないのもいっそ清々しい。マイペースな佐野に、秋人はすっかり毒気を抜かれてしまった。
「……知るかよ」
 ふてくされたように投げやりに答える。つまらないことで突っ掛かっている自分が妙に子供っぽい気がして恥ずかしく思えた。
「よく学生と間違われる」
 笑いながら佐野が続けた。この世に悩みなど一切無いと言わんばかりの顔だな、と思った。その邪気の無い笑顔に、気付くと、秋人もつられて微笑んでいた。それに気付いてハッとする。慌てて憮然とした表情になる。
「来年30だよ。一乗寺から見たら、もうおっさんだよなぁ」
「え!?」
 予想外の答えに思わず素っ頓狂な声を上げる。まさか一回りも違うとは思わなかった。本気で驚いた表情の秋人を見て、今度は佐野が憮然とした表情になる。
「そんなに驚くこと無いだろう? これでも結構気にしてるんだぞ?」
「何で? 若く見られたら嬉しいんじゃないの?」
「生徒になめられる。基本タメ口だしな」
 意味ありげに投げつけられた佐野の視線に、自分のことを言われているのだと秋人は気付いた。話して見ると、最初に感じた印象ほどおっとりしているわけでは無いことがわかる。見た目に反して案外したたかなのかも知れない。秋人は少しだけ考えを改めた。
「すみません、佐野先生」
「いい、いい。タメ口の方が僕も話しやすい」
 自分から振っておいて、改めるとかえって恐縮した様子で佐野が制した。完全に秋人は佐野のペースにはまっていた。身構えていた自分が馬鹿みたいだ。
「どっちだよ」
 咎めるように大袈裟に眉をひそめて見せてから、クスリと笑う。秋人のその様子を見て、佐野はホッと息をついた。
「この教室に入って来た時にさ、校庭を見てただろう。思い詰めてるなぁ……って感じたからさ」
 静かな、優しい声だった。ついさっきまで見せていた無邪気な笑顔とはかけ離れた落ち着いた横顔だ。秋人は思わず息を飲む。
「ま、僕の思い過ごしかな。ごめんな、遅いのに呼び止めて」
 秋人が何も言わずにいると、佐野がそう言って秋人を振り返る。その顔は、一瞬見せた大人の横顔では無かった。直人のことで必要以上に感傷的になっているのかも知れない。だから佐野の横顔なんかに見とれてしまったのだろう。
「先生は」
 少しだけ気まずい思いになって、視線を逸らしながら秋人は別の話題を探す。
「忘れ物? 何か用があったんだろ?」
 視線を向けた先、校庭の照明は既に落とされ、練習をしていたサッカー部の姿は無かった。保はもう帰っただろうか。まさか自分がまだ残っているとは思わないだろう。
 秋人の言葉の意味を理解出来なかったのか、一瞬佐野が首を傾げる。それからすぐに察したらしい。少し言い難そうに口元に手を当てた。
「いや。うん、あのさ、僕は、ここに来る前は塾で講師をしていたわけ。放課後の教室って、何だかワクワクしちゃってさ……」
 恥ずかしそうにそう言った佐野に、秋人は思わず吹き出した。
「なんだ、やっぱガキじゃん」
「僕も、自分で言ってそう思った」
 佐野も笑った。秋人は、そんな佐野をもうしばらく見ていたいと思った。

-Powered by HTML DWARF-