不確定なぼくらは。

第7話

 直人がシャワーを浴びていると、ノックの音に続いて入口のドアが遠慮勝ちに開く気配がする。
「着替えとタオル、ここに置くからな」
 シャワーカーテン越しに亮の声。それからすぐにドアは閉じた。
「サンキュー」
 意識だけをそちらに向けて、既に気配の消えた空間に声を掛ける。シャンプーの泡が薄く開いた目尻に入り、直人は慌ててぎゅっと眼を閉じた。急いで頬を流れる泡をこすり落とし、首筋やうなじを撫でてすすぎ残しが無いか感触で確かめる。耳たぶをかすめる自分の指先に、ふと先程の出来事がよみがえる。
 亮の指先の感触……。
 知らず直人は、亮の軌跡を自分の指で辿っていた。
 ハッとして思わず振り返る。ついさっき、そのカーテンの向こうまで亮が来た。
 もし、まだそこに亮がいたら……。
 妄想だとわかっていても確認せずにはいられず、思わずそっとカーテンを開けて視線を送る。当然そこには人の気配などない。
 得体の知れない感覚が胸の中にズクズクと湧き上がる。やましさとか、後ろ暗さとか、とにかく、何かいけない事をしたような気がして直人は落ち着かなかった。理解出来ない感情に戸惑いながらシャワーを止める。それから、誰に見られるわけでもないのに、亮が置いてくれたバスタオルを素早く拾い上げた。のんびりしていると今すぐにでもそのドアが再び開いて、このやましい心を暴かれてしまうような気がした。
 こんな妄想にとらわれるのも、元はと言えば秋人があんなことするからだ。
 あの瞬間から、直人の中で何かがねじれ、もつれた。どこでそうなって、いつからそうだったのか。どうしてそうしなければいけなかったのか。秋人に投げつけたい憤りはたくさんあるが、どれもがまだぼんやりとまとまらず明確な形を為さないでいる。何より、これが切っ掛けで亮との関係まで気まずくなってしまうように思えて気が滅入る。そして一度深みにはまると負の連鎖を断ち切ることが出来ず、抜け出せないことにまた焦燥するのだ。
 ぽたりと前髪から落ちた雫が頬をかすめて、直人はその冷たさに我に帰る。折角温めた身体が再び冷えはじめている。
 もし亮の目の前でくしゃみの一つでもしようものなら家に帰されてしまう。先程の亮とのやり取りを思い出して、ぐるぐると渦巻いていたモヤモヤを必死で振り払う。
 ひとまず考えることをやめた直人は、亮の用意した、直人には少し大きめのTシャツに袖を通した。ふわりと鼻腔をくすぐる洗剤の香りが、普段身につけているそれと違う。肌触りも、もちろんサイズも違う。亮のものだ。無性に喉の奥が貼り付くような乾きを覚える。
 ほんのわずか前までは何でも無かったことなのに、温かな湯に打たれて人心地ついたせいだろうか、必要以上に不安になって来た。
 さっきは勢いで一緒のベッドで寝ると言った。言ってしまった。
 さっきは何でも無いことだと思った。事実だ。男同士で何を意識する必要があるだろう。
 どんなに頭の中で理屈を並べ立てても、一度意識しはじめると止まらない。親友の亮をこんな風に意識してしまう自分が情けないし、自分ばかりが気まずいのも恥ずかしかった。
 ああ、駄目だ。一人でいるからおかしなことばかり考える。
 直人は一つ大きく息を吸い、吐く。よし、と意を決して、ようやく居室へのドアを開けた。

「着替え、ありがとう」
 ドアを開けるといきなり亮と目が合って、直人はようやくそれだけを口にする。これほどまで亮を意識したことがあっただろうか。今まで呼吸するようにごく当たり前にしていた亮との接し方が、今はもうどうすればいいか思い出せない。息苦しさを覚えて、直人はぎこちなく亮から視線を逸らす。
「ああ」
 そう返事をしたきり、亮も黙ってしまった。馬鹿みたいだと思った。自分の感情の問題なのに、自分ではどうにも出来ないのがもどかしかった。
 不意に亮の立ち上がる気配。反射的に直人はビクンと肩をすくめる。すぐに頬がカァッと熱くなった。意識し過ぎだ。亮の目には、今のこの挙動不審な自分がどう映っているのだろう。恐る恐る、直人は亮の顔色を伺う。
「……もう寝るだろう? ナオ、お前は寝相悪いから奥だ」
 拍子抜けする程何一つ変わらない、普段通りの亮がそこにいた。蛍光灯のスイッチコードに右手を掛け、左手で直人をベッドに促している。明らかに不自然な反応だった自覚があるのに、まったく意に介していない表情だった。
 こうなると自分ばかり意識しているのが尚更恥ずかしくなる。
「な、何で寝相が関係あるんだよっ。……ていうか、そんなに寝相、悪くねえよ!」
 気まずさを誤摩化したい気持ちが先走って、声が上ずる。それでも口ごもるよりはマシだと闇雲に言葉を続けたら、言い終わる頃にようやく普段の調子に戻ることが出来た気がした。
「ベッドから落ちるだろう。だから壁際」
 寝相は悪くない、という直人の主張は無視して、有無を言わさぬ態度で顎をしゃくる。意地になって食い下がる必要も無いことだ。少しだけムッとはしたが、直人はそこで言葉を飲んで渋々、と言った風にベッドに上がった。毛布の下に身体を滑り込ませると、それを待っていたようにカチリと音がして、部屋の明かりが落ちた。
「もう少しそっち、詰めろ」
 ギシリ、とパイプベッドの軋む音がしてスプリングがたわむ。暗闇。亮の形をした質量が迫る。
「これ以上、無理」
 壁に貼り付くように身体を横たえた直人の背に触れて来るのは、亮の体温だ。布の擦れる音。身じろぎに生まれる振動。こんな風に誰かと一つの布団に入ることなんて、物心ついてからの直人の記憶には無いように思う。弟の秋人とでさえも、小さな頃からベッドは別々だった。
 自分の心臓が必要以上の早さでドキドキと脈打つのを感じる。
「ほら、だから言ったじゃないか」
 亮の声が、今までにない程近くで聞こえる。意識的にそうしなくても、夜の静寂の中、この距離では呼吸音すらも耳に届く。
 ならば、自分の呼吸も亮の耳に届いているのかも知れない。
 考えただけで呼吸が乱れる。気付かれたくなくて、直人はそっと口元を手で覆う。
「な、な、何っ!?」
 心臓が口から飛び出す、とはまさにこのことを言うのだろう。亮がぴたりと身体を寄せ直人の肩を抱いた。首筋に息が掛かる程の距離に、何事かと訊ねる声も裏返る。
「……狭いんだよ。文句言うな」
 低く囁くような声。直人は、自分がおかしくなってしまったのだと思う。
 秋人に、強引に押し倒されてからまだ半日と過ぎていない。
 あの時よりもずっと近い亮との距離に不快感は無かった。
「文句……じゃねえよ」
 他人の体温が、これほどまで心地良いとは思わなかった。
 亮から身体を寄せられたことで、直人の中で緊張の糸が一つ解けた。少なくとも亮は、直人が意識する程、肌が触れあうことを意識していない。触れてもいいのだ……。
 それまで強ばらせていた身体を弛めて、直人は、亮の胸に自然に身体を預ける。
「……ナオ……っ」
 一瞬、今度は亮が身体を強ばらせた気がした。ほんの一瞬。でもすぐに受け止めてくれた。
「……おやすみ」
 意識することなんて何も無い。何も変わらないんだ。漠然と感じていた不安が一瞬のうちに霧散して行くのを感じるのとほぼ同時、長い緊張から解放された直人は、深い眠りへと落ちて行った。

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