不確定なぼくらは。

第6話

 すっかり緊張の解けた直人がふと気付く。亮は先程までこたつの隅に置かれていたノートや参考書を傍らのカラーボックスの上へと除けた。それから、決して広くはない部屋の大部分を占めるように配置されたベッドを背もたれ代わりに伸びをしている。
「ご、ごめん。やっぱりこれ飲んだら帰るっ」
 ついさっきまで亮が勉強をしていたのは一目瞭然だ。いくら親友でも流石に非常識だった。直人は急いでマグカップの中身を流し込もうとする。
「アチッ!」
 が、予想以上の熱に舌が触れ、涙目になりながら慌てて口元を手で押さえる。突然そわそわし出した直人を見て、亮は最初キョトンとしていたが、その理由に思い当たったようで苦笑した。
「泊まってけよ。どうせもうやめようと思ってたところだったし」
 グレーのスウェットの上下にはんてんを羽織った何とも気取らない姿の亮が、大きな背中を小さく丸めてこたつの天板に頬を乗せる。その体勢で、直人の顔を下から覗き込み、微笑んだ。
 学校ではほとんど隙がなく、四角四面な印象すら受ける亮が、プライベートでは意外にルーズでラフなスタイルを好むことを知ったのはいつのことだったろう。そのギャップに最初こそ驚いた直人も、今ではそんな亮にたくさん救われているのだと感じている。
「……うん、ありがとう」
 実際、今から帰ることを考えたら気が重い。これほどまで自分を甘やかしてくれる親友に巡り会えたことを直人は感謝する。亮の目線に合わせるように天板に顎を乗せ、少し照れくさそうに亮の顔を覗き返した。
 一瞬、亮の視線が泳いだ。何だろうと直人が注視していると、「それはそうと」と真剣な面持ちで亮が切り出して来る。
「明日、どうするんだ? 一旦家に帰るなら、早めに起きないと」
 何の話をしているのか理解出来ないでいる直人に、亮は言葉を続ける。
「制服も教科書も何も持って来てないだろう?」
 明日も平日である。そのことをようやく直人は思い出した。そうだった。全然何も考えてなかった。直人は頭の中がまっ白になってそのまま黙り込んでしまう。いずれにしても一度帰らなければならないのなら、何のために家を飛び出して来たのかわからない。今帰れば確実に秋人と顔を合わせることになるだろう。けれど秋人が家を出る時間を見計らっていたのでは遅過ぎる。今は、どうしても秋人に会いたくはなかった。
 何も答えない直人を、亮は黙って見ている。突然訪ねたことで何かあっただろうことはある程度察しが付くだろうに、亮は決して問いつめたりはしなかった。今も直人が自発的に話すのをただじっと待ってくれているようだ。
 思案するようにずっと伏せられていた直人の視線が、亮に向く。それから、探るように一つ一つ、慎重に言葉をたぐる。
「亮はさ」
「うん」
「もし……もしもだよ? その……男に好きだって告白されたらどうする……?」
 直人の口からおそるおそる放たれた言葉に、亮は虚をつかれたような顔で硬直した。それから、言葉の意味を何度も反芻するように思考の中で巡らせているらしい。落ち着かない様子で視線をさまよわせ、眉間にしわを寄せている。何とも言えない空気が二人を包む。直人が、無駄に悩ませてしまったと慌てて別の言葉を探しはじめたとき、ようやく亮が口を開く。
「……別に、人を好きになるのに性別は関係無いんじゃないか……?」
 僅かばかり動揺は見て取れたが、そのあまりに真摯な姿勢に直人はかえって面食らってしまった。
「じゃあっ、そいつが、弟だったら!?」
 思わず声を荒げてから直人はしまったと思う。これでは誰の話をしているのか瞭然である。最終的に全て話す覚悟ではあったが、順序をすっ飛ばし過ぎてしまった。気まずさから取り繕おうと更に言葉を探しながら亮の様子を伺う。すると亮が見せたのは予想外の反応だった。
「あ……え、ああ、そっちか。俺はてっきり……」
 今まで見たことも無い程狼狽えた亮が、耳まで真っ赤にして顔をそらしている。亮が何を誤解し、何に納得したのか理解出来ず、直人は次の言葉を出すことが出来ないでいる。すぐに気を取り直しいつもの調子に戻った亮が続けた。
「俺は兄弟がいないからわからないんだが」
 何事も無かったかのようにそう前置きする亮に違和感を覚えるが、直人は口を挟むタイミングをすっかり逃してしまっていたからそれは気にしないことにする。
「性別も、それから弟かどうかってのも、たいした問題じゃないんじゃないか?」
「で、でも血も繋がってるのに……」
「男同士だし、血はどうでもいいだろう、この際」
 明らかに根本的に何かが違うと思うのだが、きっぱりと言いきられて、直人は二の句が告げられない。何か言おうとする直人に畳み掛けるように亮は結論を突き付けた。
「要はそいつを受け入れられるかどうか、だろう?」
 まだ納得がいかない様子の直人に、最後は諭すような口調だった。
「お前は理屈で考え過ぎるんだよ。だから難しくなる」
「でも……」
「受け入れたいのか?」
 聞かれて即座に激しく首を振り、否定する。
「じゃあ、もう答えは出てるじゃないか」
 あ、と思わず小さく声を漏らした。喉につかえていたモヤモヤがスッと溶けてなくなるような気分だった。顔を上げると、亮が笑っている。つられて直人も照れくさそうに微笑んだ。
「別に、男だからとやかく言うわけじゃ無いんだ、俺は」
 直人が、ひとり言のようにつぶやく。
「そりゃ、理解出来ないけどさ。男同士でなんて……」
 上手く言葉にできずに苛立ちを覚える。ふてくされたように頬を膨らませる直人を、亮は複雑な表情で見つめる。
「理解したいのか……?」
 絡み付くような亮の視線を訝しく思い顔を上げる。亮が不意に右手を伸ばして来て、直人の頬にかかる前髪を梳くように撫で付け、耳に掛ける。驚いて直人はビクリと肩を竦める。
「亮……?」
 その指は離れず耳殻をなぞり、耳の後ろを通って首筋へと下りて行く。からかっているのかと亮の顔を覗き込んで直人は息を飲む。思い詰めたような真剣なまなざしでこちらをじっと見ている亮の顔がそこにあった。
「ゃ……っ、亮!?」
 語尾を荒げて離れようとした瞬間、うなじに回された手に力がこもり、逃げるのを妨げる。小さく狭いこたつの中で触れ合っていただけの足が急に意識される。直人は、ただ動揺する。
 拮抗する静寂。
 最初に動いたのはやはり、亮だった。熱っぽい視線でまっすぐ直人を見つめたまま、腕に力を込めて引き寄せる。亮自身もゆっくりと顔を寄せて行く。直人は何故か抵抗出来なかった。はねのける力が無いわけでは無いと思う。引き寄せる亮の腕にはさほど強い力は込められていない。それなのに何故……? 自分でもわからない。二人の顔は、お互いの息が掛かるくらい近付いている。
 瞬間、すぐ目の前で亮は破顔する。
「……なわけないだろう?」
 堪え切れない様子でプッと吹き出した。
 どうしていいかわからずに泣きそうになりながら身体を強ばらせていた直人は、その瞬間、不安や戸惑いが混ざりあう言いようの無い感情が怒りに変わるのを感じた。
「あ、亮!? ひでぇ……っ、こんな時にこんな冗談、するかぁ!?」
 顔を真っ赤にして抗議する。一瞬でも本気にした自分が恥ずかしくて、一瞬でも受け入れかけた自分が恥ずかしくて、それを誤摩化したくて必死だった。辿られた首筋の感触が消えずに残っている。それは決して不快なものでは無かった……それが恥ずかしかった。
「お前がいつまでもどうでもいいことでグチグチ悩んでるからだろう?」
 興味が無い、とでも言いたげに言い放ち、亮は直人の額を勢い良くさっきまで首筋に触れていた指で弾いた。
「イテッ! 亮っ、てめぇ……っ!」
「制服は俺のを貸してやるよ。1年の頃に着てたやつ、もう小さくて入らないのがあるから」
 掴み掛からん勢いで詰め寄った直人は出ばなをくじかれ、言葉を無くす。唐突に戻された話題に、頭が着いて行かない。
「風呂、入るなら使っていいぞ。着替えも必要なら貸すし」
 まくしたてるように次々亮に提示され、直人はすぐに現実に引き戻された。明日からのこと、秋人のこと、考えなければならないことはまだ何一つ解決してはいない。
「う、うん。ありがとう」
 自分には出来過ぎた親友の気遣いに、直人は素直に感謝した。
「で、俺はこたつで寝るからナオがベッドで寝ろ。お前、風邪ひきやすいし、ただでさえ薄着でふらふらしてたんだから」
 しかしその提案には直人は素直に従えなかった。一瞬驚いてから、すぐに申し訳なさから必死に拒否する。
「いいよ、急に押し掛けて来たんだし。それにそんなやわじゃねえよ」
「だめだ。ベッドで寝ないなら家に帰すからな?」
「ひかねえよ、風邪なんて。お前のベッドだろう!?」
 亮より身体が小さいからか、まるで子供扱いだ。それが気に入らなくて直人はついむきになる。一歩も引かない直人に、亮も意地になっているのか譲らない。じゃあ、と折衷案を出したのは直人だった。
「一緒に寝ればいいだろう?」
 ベッドはシングルサイズだ。成人ではないにしても、高校生ともなれば男子が二人並んで寝るにはサイズ的に流石に無理がある。
「いや、それは無理だろう」
 亮が冷静に指摘するが、直人は納得しない。
「くっついて寝れば大丈夫だろ。じゃあ、風呂借りるな」
 これ以上無い程の妙案だと言わんばかりに得意げに言い残して、直人は勝手知ったる我が家よろしくユニットバスへと消えて行く。やがて扉の向こうからシャワーの水音が響いて来ても、亮はその場からしばらく動けずにいた。
「……冗談だろう? 勘弁してくれよ……」
 耳まで赤くして困ったように頭を抱え、亮は独りごちた。

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