不確定なぼくらは。

第5話

 話は少し戻る。それは3日前、直人が家を飛び出した夜。

 行く宛ても無く直人は冬の夜道を歩いていた。
 行き先もろくに告げず、着の身着のままに家を出て来たが、今頃両親は心配しているだろうか。あの場に居合わせたきよみも。それから……。
「……やべ、財布」
 出掛ける予定なんて無かった。夢中で引っ掴んだジャケットのポケットを探っても出て来るのは糸屑くらいだ。かろうじてジーンズの後ろのポケットに携帯電話を突っ込んでいたから、それを手に取り、液晶画面を確認する。
「あんまり無いな……」
 電池残量のゲージが最後の1メモリを示していた。落ち着いて、まずどうするべきか考えなくては。
 もう今年もあと何週間というこの時期に、部屋着にジャケットを羽織っただけでは流石に寒い。しかし家には、今は絶対に帰りたくない。となれば、直人の今の混乱した頭に思い浮かぶ場所は1つしか無かった。
「あいつんちなら大丈夫かな……」
 寒さに肩をすくめながら、誰に言うとも無しに直人はつぶやく。それから意を決したようにメモリーを呼び出し、ダイヤルする。3度目のコールで電話が繋がる。
『もしもし?』
 聞き慣れた声が耳に届く。それだけで直人はホッとした。
「あの、亮? 俺、一乗寺だけど」
『着信見ればわかるよ』
 電話の向こうで亮が笑った。直人の心に安心感が広がって行く。
『で? どうした? 何かあったのか?』
 声色に出ているのだろうか。察しのいい亮の言葉に、つい今しがたの出来事がよみがえって来て直人は声を詰まらせる。
「ん……うん……あのさ、今からおまえんち、行ったら迷惑かな……」
『別に? 他に誰もいないし、俺は構わないけど』
 亮はアパートで一人暮らしをしている。自宅が学校から電車で2時間の場所にあるから、通学のために部屋を借りているのだ。週に3日はバイトもしている。そのくせ成績は常に上位なのだから、直人はそんな亮をちょっと尊敬していた。
「じゃあ、これから行く。悪い、急に」
『いいって。迎えに行くか?』
「いらないよ! ガキじゃあるまいし。じゃあ、電池無いから切るなっ」
 からかうように電話の向こうでくすくす笑う亮を嗜めるように語調を荒げ、ボタンを押した。行き先も決まって少し落ち着いた。直人は亮のアパートへと進路を取りながら急いで別のメモリーを呼び出す。相手は1コールで出る。
「もしもし、マコト? 俺、直人だけど」
『どうせ岸田くんのところだろう?』
 用件を切り出す前に見透かされたように言い当てられて、直人は何も言えなかった。
『こんな時間だし、あまり迷惑かけないようにな』
 理由も聞かないし、帰って来いとも言わない。マコトらしかった。それがかえって直人には居心地が悪い。
「うん……また明日電話する」
 そのまま電話を切って、しばらく立ち止まり、じっと液晶のディスプレイを見つめる。
 マコトは勘がいい。勘がいいのを通り越して、ある種のオカルトの域だ。もしかしたら電話をしてもしなくても、マコトには直人のこの後がわかるのかも知れない。本気でそう思うくらい見透かされることが多い。
 そんなに自分はわかりやすいだろうか、と、思いめぐらせるうち、亮の住むアパートの前に着いていた。
 亮の部屋の前に立ち、溜息を一つつく。そして呼び鈴に手を伸ばした瞬間、思いがけず目の前のドアが開く。
「わ、こ、こんばんは」
 びっくりして声が裏返ってしまった。直人は気まずさも手伝ってその場に硬直してしまう。
「もう着いたのか。そこまで出ようと思って……」
 思いがけず目の前にいた直人のその驚きように、思わず亮は吹き出す。照れくさいのかすぐに不機嫌そうに頬を膨らます直人。亮は必死に笑いを堪えながら、無言で直人を招き入れた。口を開くと堪えきれそうにないからだ。
「ほんと、急に悪かったよ……」
 まだ肩を震わせている亮に冷ややかな視線を送りながらも、直人は申し訳無さそうにうなだれる。それを見た亮はようやく笑うのをやめて、直人にまっすぐな視線を向けた。
「そんな薄着じゃ寒かったろう? あたってろよ」
 それ程広くはない部屋の真ん中に置かれた小さなこたつを指し示しながら、亮はキッチンに向かう。キッチンと言っても1ルームの部屋だ。姿が見えなくなることは無い。
 今さら遠慮することも無いかと、直人は促されるままこたつに足を突っ込む。爪先にじんわりと痛みに似た感覚が広がる。随分と身体が冷えきっていたことを、今更ながら実感する。
「インスタントでいいか? 砂糖とミルクは?」
 亮が琥珀色のビンを片手に聞いて来る。一瞬何を聞かれたのかわからなかった直人は、すぐに首を横に振って、
「いい、気ぃ使うなよ。急に来たんだし」
「俺が飲むついでだよ。そっちこそ遠慮するな」
 直人が答えないのでそのまま手を止めてじっとしている。それならと、少し考え、
「じゃあ、いっぱい」
「1杯?」
「たくさん入れて!」
 聞き返されて、少し拗ねたように言い直した。亮の口調がまたからかいを含んでいるのがわかったからだ。学校にいる時間はほとんどいつも一緒にいるし、放課後や休日に連れ立って遊びに行くことも少なくない。直人が甘党なのを亮だって十分理解しているはずだ。現に、それから亮は具体的な量も聞いていないのに、きっちりスプーンに5杯ずつの砂糖とミルクを入れた。最初からその量を知っていたからだ。もう一つ置かれたカップには、コーヒーの粉だけが投入され、そこに勢い良くポットのお湯を注いでいる。
「ほら」
 差し出されたマグカップからは、温かな白い湯気が立ち上っている。直人はそれを無言で受け取った。
「で?」
 自分の手元に残した方のカップを先に置き、こたつに足を差し込みながら亮が本題を切り出して来た。直人は口元に寄せかけたカップを止めて、またそのまま硬直してしまう。
「う……うーん、あのさ。悪いんだけど今日、泊めてくれない?」
 亮の顔色を伺うように上目遣いでチラチラと視線を送る。
「こたつでいいからさ。俺、寝るの。……だめかな?」
 言い難そうに視線を泳がせている直人を見て、亮はまた吹き出す。
「そんな死にそうな声出さなくても、追い返したりしないよ」
 また笑われたことにカチンとはしたものの、その人の良さそうな笑顔に、いつの間にか直人の緊張も解れていた。ふぅ、と一つ息を吐くと、ようやく手にしたカップを口に運ぶ。口の中に広がる独特の苦みを含んだ甘さが、更に心を落ち着かせてくれる。

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