不確定なぼくらは。

第4話

 それは直人が家を飛び出して3日目のことだった。
 同じ高校に通い、同じ校舎の中にいるのだからいずれその日が来るのだろうとは思っていたが、いざその時が来るとどうしていいかわからない。
 移動教室で保と二人、連れ立って歩いていたら、向こうから見慣れた顔がやって来た。
「なお……っ」
 思わず口をついて出る。保も知らない仲では無い。急に立ち止まり絶句する秋人を見て訝しげに秋人の視線の先を見てから、もう一度秋人に視線を戻して気まずそうに様子を伺っている。話したいと思わないわけでは無かった。ただどう切り出していいかわからないから、心のどこかで避けていたい部分はあったかも知れない。
 兄の直人がそこにいた。
 一瞬秋人の方をチラリと見た直人は、すぐ何事も無かったように一緒に隣を歩いていた友人に視線を戻し、なにがしか言葉を交わしている。その友人に秋人は見覚えがある。直人のクラスに用があって訪ねて行くとたいていいつも一緒にいるし、家を訪ねて来たこともあった。おそらく直人が最初に転がり込んだのもあいつの家だろう。秋人とは視線を合わせようとしない直人のせいもあって、無意識に秋人は直人の友人を凝視していた。
「おい……あっきー、行こうぜ。遅れる」
 痺れを切らした保がおそるおそる声をかけて来た。ハッとして秋人は保を見る。秋人の様子をじっと見守っていた保の顔も強ばっている。ここで感情的になっては保に申し訳ない。冷静さを取り戻させてくれた保に感謝しながら秋人は無言でうなずき、再び足を進めはじめる。
 直人に話したいことはたくさんある。でも今、ここでそうしている余裕はない。何より秋人も直人も一人では無かったから、今はその時では無いのだと自分に言い聞かせた。
 その間にも二人の距離は縮まって行く。何がおかしいのか直人は友達の男とこれ見よがしに談笑している。こちらのことは見ようともしないのに……秋人は、冷静になろうとする意思に反してどんどん苛立ちが増して行く自分をどこか他人事のように感じていた。
 保が何か語りかけて来る。空気を変えようと気を使ってくれているのだろう。だが秋人の耳には入って来なかった。適当な相づちを打ちながら視線は直人を追っていた。
「直人」
 すれ違う瞬間、思わず肩をつかんで振り向かせていた。そこからどうしようとか、何も考えていない。ただこのまま何もないふりで通り過ぎることが出来なかっただけだ。
「あっきー……!」
 聞こえたのは保の声だった。慌てて二人を引き離そうとして秋人の腕を掴んでいる。当の直人は、不機嫌そうに無言で秋人を睨んでいるだけだ。やっと視線が合った。この状況なのに、それが妙に嬉しかった。
 次の瞬間、直人の身体が離れて行く。保と同じように、直人の友人も直人の手を引いていた。
「行くぞ、ナオ」
「ああ、悪い。亮〔あきら〕」
 秋人の手を振りほどくと、完全に無視を決め込んで直人は亮と呼ばれたその男の後を追う。それを確認した亮は、直人に優しげな眼を向けたあと、秋人を一瞬チラリと見た。秋人も決して背の低い方では無かったが、その秋人よりほんの少し高い身長から見下ろされる。一瞬だったから見間違いかも知れないが、その口元がほんの少しだけ挑発的に笑っていた気がした。
 カチンとして追いかけようとした秋人の手を、保が必死に掴んでいる。保を振りほどくのを躊躇していると、追い討ちをかけるような直人の声が、背中越しに秋人に投げつけられた。
「帰らないからな。もっと頭冷やせよ」
 少し離れた場所で、直人がこちらを見ていた。南向きの窓のある通路だった。窓から差し込む陽光が眩し過ぎてその表情は見て取れなかった。
 立ち尽くす秋人をそのままにして、二人はその場から遠ざかって行った。

「なあ、あっきー。おばさん、まだニンジャに乗ってんの?」
 また保が空気を変えようとして話し掛けてくれている。けれど秋人にはもう、それに答える余裕も無かった。
「何それ。知らない」
 保に八つ当たりしても仕方ないのに、つい素っ気ない態度で答えてしまう。そのことが今度は自己嫌悪に繋がって余計に秋人の気持ちを沈ませた。
「バイクだよ。カッコいいよなぁ、あれ。俺さ、高校卒業してバイクの免許取っていつかあれに乗せてもらうんだ」
 それでもめげずに、普段より一層楽しげに言葉を弾ませている保に秋人は思わず苦笑する。
「いいな、保っちゃん。いつも楽しそうで」
 馬鹿にしているわけではないが、気が滅入っているせいでアクセントが嫌味っぽくなってしまった。
「……バイクならまだ乗ってる」
 慌てて言葉を繋げながら保を見ると、さして気にしてもいないようにパッと顔をほころばせた。保のこの性格には本当に救われている。秋人は心の中でそっと感謝する。
「でも俺、興味無いからそのニンジャってやつかどうかは知らない」
「何だよもったいない奴だなぁ。俺がおまえんちの子供だったら良かったのに」
 保がおどけて見せた。秋人は笑った。それから、今はもう直人のことを考えないことにした。少し早足になった二人を、授業開始のチャイムが追い掛けた。

「え? 部活?」
「うん、悪い。今日は先帰って」
 保の言葉に秋人はきょとんとする。
「たもっちゃん、サッカー部辞めたんじゃなかったのか」
 ここ最近、ずっと帰りは一緒だったからてっきりそう思っていた。秋人は疑問をそのまま口にした。
「うーん、なんかムカつく3年がいてさ」
 保にしては珍しく歯切れの悪い話し方だ。
「でももう3年も引退してるし。顧問に呼び出されたからちょっと顔出してくるわ」
 保が小学校からずっとサッカーを続けていたのは知っているから、サッカーが嫌いになったわけじゃないのは秋人にもわかる。
「ああ、行って来いよ。別に悪いなんてこと無いし」
「この前やったガンシュー、面白かったから今日もういっぺん行こうって、誘おうと思ってたんだけどな」
 一昨日二人で行ったゲームセンターの話だとすぐにわかった。だがそれが真の目的では無いことも秋人は理解している。
「また今度行こうぜ。別に今日じゃなくてもさ」
 俺は大丈夫だから。言葉にはせずに飲み込む。保もそれで何となく察してくれたらしい。
「うん、そうか。じゃ、また今度な」
 ニッと最上の笑顔を作る。秋人が直人のことで沈み勝ちだから、保なりに気を使ってくれているのだ。
「ま、今さらって気もするけどさ」
 保は保でいろいろとあるらしい。ぶつぶつと言い訳めいたことをつぶやきながら教室を出て行った。

 さっきまでちらほらと残っていたクラスメイトがすっかり姿を消しても、秋人は一人帰りそびれていた。
 教室の電気を付けることもせず、すっかり夕暮れに染まる校庭をせわしなく走り回るサッカー部の練習を見るともなしに眺める。あの中のどれかが保なのかも知れないが、薄暗くてここからは判別がつかない。
 直人は、もう祖父母の待つ家に着いた頃だろうか。授業が終わってすぐ帰路につけばおそらくそのくらいの時間だ。秋人は結局今も直人のことを考えていた。
 それにしても気になるのはあの亮という男だった。直人の会話によく出る名前だったから聞き覚えがある。確か名字は岸田だ。今までは顔と名前が一致しなかった。特に興味もなかった。
「まさか直人……あいつと……?」
 言葉を口にして、すぐにその発想の馬鹿馬鹿しさに自嘲する。直人は男に欲情するタイプでは無い。秋人が血縁だから、という理由だけで拒絶したわけではないことくらい当の秋人には十分身に染みている。しかし直人にその気が無くても岸田の方はどうだろう。岸田は直人の親友と言って間違いないはずだ。その岸田が、直人から秋人とのことを聞かされていても何の不思議はない。その上であの挑発するような態度だとしたら……。
「まだ誰かいるのか?」
 不意に掛けられた声に秋人は驚いて顔を上げた。教室の入口にあった人影が壁を探る動きをすると、パッと教室が明るくなった。薄暗い場所にいた秋人は急に灯った蛍光灯のまぶしさに眼を細める。
「何だ、一乗寺か。どうした? 帰らないのか?」
 気さくに話し掛けて来る声の主は、臨採の佐野だった。

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