不確定なぼくらは。

第2話

 その日の午後、秋人は結局教室にいた。
 あの後すぐに両親は家を出て、家に一人きりになったのでそのまま寝て過ごしても気兼ねすることはなかったのだろうが、マコトにはすべて見透かされているようで居心地が悪かった。
 家から近いというだけで選んだこの高校には、兄の直人も通っている。会いに行こうと思えば、3年の教室に直人はいるのかもしれない。しかしそれを確かめる気に秋人はなれなかった。
「あっきー。もう頭痛いの平気なのかよ」
 教室に入るなり親友の小林保(たもつ)に心配されてしまった。学校には母親が連絡を入れてくれていたらしい。秋人は素直に感謝した。
「たもっちゃん。俺、死にたい」
「そんな血色のいい顔して何言ってんだ。また兄貴と何かあったのかよ」
 二人の間では既にお決まりのやり取りになっているらしく、秋人の物騒な発言に動じること無く保が軽口で答える。保とは幼稚園からの付き合いで、お互いの家族のことも良く知っている。秋人の極度の兄好きは昔からのことだ。秋人に何かあるとすればたいていは兄絡みのことで、だから保はいつものように軽い気持ちで口にしたに過ぎなかった。
「……」
 そのまま黙ってしまう秋人を見て、普段とは明らかに異なる雰囲気を感じた保も流石に閉口する。今まではただのブラコン程度にしか思っていなかった。だが近頃秋人の感情がエスカレートしていたことは保も薄々感づいていたから、この様子では……。それ以上の想像は恐ろしくて保にはできない。居心地が悪そうに顎に手を当てたり頭をかいたりしてそわそわと思案を巡らせてから、思ったことを素直に口にする。
「俺には理解出来ないけどなぁ。兄弟でそういうのって。お前の兄貴もそうだったってだけだろう?」
 決してからかいや軽蔑では無い保の言葉。秋人もそれは理解しているつもりだ。でも、だからと言って、直人に受け入れて貰えないこの気持ちをどこに向ければいいのか秋人にはわからなかった。一つ大きなため息をつきながら机に突っ伏し眼を閉じる。そんな秋人に何か声を掛けようとした保を、午後の授業時間を知らせる予鈴が制した。

 本鈴が鳴っても秋人は机に突っ伏したままだった。
 教室の引き戸がガラガラと開く音がして、室内のざわめきがやや静かになる。次の授業は担任で現国の塚田だ。来年定年のおっとりとしたじいさんで、生徒の一人や二人寝ていたところで気にせず授業を進めてくれる。
 そのはずだった。
「誰だ? そこで寝てるのは。授業ははじまってるぞ?」
 聞き慣れない張りのある声が耳に届いて、秋人は目を開ける。だがすぐには前を見ず、隣の席の保に問うような視線を投げ掛ける。それに気付いた保が小声で言った。
「ツカさん、昨日、駅で転んで腰打ったって。全治1ヵ月だってさ」
 保がチラチラと前を気にしながら早口で言った。足音が近付いてくる。保は足音の方に注目して口をつぐむ。そこでようやく前を向こうと上げかけた秋人の頭に、乾いた音がコツンと当たる。
「……っ!」
 痛いわけでは無かったが、予想外の展開に驚いて顔を上げると、そこにあったのは見慣れない顔だった。一見すれば自分たちとそれ程歳の変わらない微かにあどけなさの残る風貌。どちらかと言えば華奢な体格と優しげな面立ちが、秋人の目に飛び込んだ。
「悪い、叩くつもりじゃなかった。名前を確認しようと思って」
 おそらく教師と思われるその男が手にした出席簿を秋人の頭上に掲げている。教師の方にしても、急に頭を上げられて驚いた風に秋人の顔を覗き込んでいる。秋人の頭に当ったのはこの出席簿だろう。思わずじろりと睨んだ際に教師は申し訳無さそうに先刻の言葉を口にした。
「キミ、遅刻の連絡があった一乗寺くん、かな?」
 どこかおっとりとした口調で尋ねてくる。保の話を統合すると、つまりこれが怪我をした老公の代わりの教師ということだろうか。
「まだ体調がよくないなら、保健室に行くか?」
 返事もせず憮然とした表情でいる秋人に心配そうな顔で話し掛けてくる。一生懸命な様子は伝わってくる。そのひたむきな態度が妙に秋人をイライラさせた。
「……誰?」
 直人の件でむしゃくしゃしている部分もあった。わざとぶっきらぼうにそう言う。経験のそう多く無さそうなこの臨時採用教師を虐めるにはそれで十分だろう。
「ああ、ごめん。朝、いなかったもんな」
 ところが秋人の予想に反して、教師は動じる様子もなく少し早足で教室前方の教壇まで戻ると、黒板に文字を書きはじめる。
「朝に一度自己紹介はしたんですが、一度じゃ覚えられない人もいるだろうし、ついでだからもう一度します」
 教師の手が軽快に踊る。黒板には『佐野尚之』と書き出された。
「『さの なおゆき』です。怪我をされた塚田先生が戻られるまで、よろしく」
 佐野と名乗った教師は、そう言って秋人に笑顔を向けた。
「ナオ……」
 無意識につぶやいていた。
 ただ名前の音が同じだけなのに、酷く動揺している自分に秋人は苛立ちを覚えた。直人は、今日は家に帰るんだろうか。複雑な表情を浮かべる秋人を気にするでもなく、佐野はそのまま授業を開始した。

 窓の外に広がる景色がほのかに茜色に染まりはじめている。
 すべての授業が終了してクラスの大半の生徒が帰路につくべく教室を後にしても、秋人は席に着いたままぼんやりとしていた。
「あっきー、帰んないの?」
 保は今日何度目かの同じ言葉を秋人にかける。声を掛けられた秋人も、「ああ」と変わらぬ気のない返事だ。
「じゃあ俺、先に帰るわ」
 呆れて一つため息をつくと、保は秋人に背を向けて歩きはじめる。ようやく我に帰った秋人が追いかけて来たのは、保が教室を出て20メートル程歩いたところだった。
「お前、今日ほんっとおかしい」
 追いついた秋人に冷ややかな視線を向ける。珍しく落ち込んだ様子で俯く秋人を見て「まあいつもおかしいけど」と保は付け加えた。秋人は「うるさい」と言って保の後頭部を軽く小突く。その顔には笑みが浮かんでいる。
 自分でもわかっている。何かに苛立っている自分。それが直人に対する感情から来ることも。けれど、それ以上今の秋人にはどうすることも出来なかった。自分でも何をしていいかわからない。
 また黙り込んでしまった秋人に、保は思い出したように話し出す。
「そう言えばさ、今日来た臨採の佐野って先生さ」
 そこまで言いかけて保はいったん言葉を区切り、秋人の様子を伺う。秋人も少し興味を持ったらしく保を見て視線で先を促している。
「お前の兄貴に似てない?」
「……そうか?」
 口で否定しながら、秋人は今日初めて会った佐野という教師のことを思い出していた。こんな中途半端な時期にやって来たから妙に印象深いという部分はあるのかもしれない。普段なら教師の一人や二人、そう記憶に残るものでもない。それなのに、佐野に対して抱いたあの妙なイライラは何だったのだろう……。
 一瞬でも佐野のことが気になったことは否定しないが、佐野が直人に似ているかと聞かれても、そもそもその発想自体秋人にはなかった。
「俺は似てると思うけどなぁ。雰囲気だよ。雰囲気がさっ」
「似てないよ。第一たもっちゃん、直人とそんなに話したこと無いだろう?」
 食い下がる保に少しムッとしたように秋人は返す。
「そりゃそうだけどさ。じゃあそうだ、きっとおばさんに似てるんだ。お前んちの」
「それはもっと似てないだろ……」
 保は密かに秋人の母親に憧れているらしい。何かに付けて話題にしたがるから、結局佐野の話もそこに持って行きたかっただけなのだろう。秋人は呆れて冷ややかな視線を保に返した。

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