不確定なぼくらは。

第1話

 いつからこの感情を抱いていたのだろう。
 生まれた時には既にその存在はそこにあって、物心がついた頃にはそうだったかもしれない。今、目の前にそれはあって、先程から他愛もない言葉を交わしている。学校であったこと、新しく近所に出来たファストフード店の話、漠然とした将来について。交わす言葉の内容は話す端からこぼれて頭になど入っていない。ただ目の前の、愛しいその存在を抱きしめたかった。

「直人、俺、直人のことが好きだ。SEXしたい」
 何の脈略もなく発せられた言葉に、直人と呼ばれた少年は硬直した。窓際に配置された学習机を向いたまま押し黙る。重苦しい沈黙。すぐ後ろに配置されたベッドに座る秋人(あきと)──声をかけた張本人──には、直人の表情を伺い知ることは出来ない。
 どれだけそうしていただろう。実際にはほんの十数秒のことかもしれない。秋人が耐え切れずにもう一度声を掛けようとした時、先に沈黙を破ったのは直人の方だった。
「お前、またそういうこと言って。からかうのもいい加減にしろよな」
 振り返る直人は呆れたように笑っている。はなから信じていないのか、それともそういうことにしたいのか……。
「からかってない。俺、いつでも本気だ。直人、ちゃんと聞け……」
「それから」
立ち上がり詰め寄る秋人を制するように、直人が強い口調で畳み掛ける。
「俺を呼び捨てにするな。『兄ちゃん』だろう?」
少しムッとしたように秋人を睨みつける。
 それで収まりがつかないのは秋人の方だった。この人にとっては、弟に「SEXしたい」と言われたことより、呼び捨てにされることの方が聞き捨てならない事態なのだ。これまでも折に触れ気持ちを伝えて来たつもりだった。その度にはぐらかされていることを、忘れているとは言わせない。秋人は日頃から積み重ねた不満を素直に顔に出す。
 あからさまに不機嫌な顔で口をつぐんだ弟の様子を見て、慌てて直人は取り繕う。
 元々この家ではお互いを名前で呼びあう習慣がある。両親を呼ぶ時に至ってもそうなのだから、今さら兄貴風を吹かせるでもなかったのだ。
 直人にしてみれば、秋人の「兄弟愛」では収まりの付かない感情に気付いていないわけでも無く、そのことに釘を刺したかった。直人にとって、秋人は「弟」以外の何者でもない。秋人の望む種類の愛情で応えることなど不可能だ。秋人を傷つけたいわけじゃないのに……。直人は諭すように秋人の顔を覗き込む。
 不意に腕を強く引かれる。わけのわからないまま直人の視界はぐるりと反転した。
 気付くと天井を見上げる形でベッドにねじ伏せられている。真剣な表情でじっと見つめる秋人の顔がそこにあった。
「じゃあ、『兄貴』って呼べばやらせてくれるのかよ」
 低く静かな声に息を飲む。
 年は秋人より1つ上だったが、高校に入って伸び悩んだ直人に比べて秋人の方が上背があって体つきもがっしりしている。この体格差では、1つ程度の歳の差など何の意味も持たない。
 力づくで押さえ込まれることなど想像もしていなかった。血を分けた兄弟でまさか、という気持ちがあったのは否めない。
「冗談……」
「冗談じゃないって……」
 何とかこの場を切り抜けようと発した言葉も即座に遮られる。
「ずっと言ってるだろう……!?」
 押し返してもびくともしない。よもや自分がこんなにも非力だとは思っていなかった直人は愕然とする。秋人の顔が近付いてくる。この状況で、何をされるかわからない程子供でも無い自分がかえって恨めしい。

「ちょっと、さっきからドタバタうるさいんだけど」
 浴びせられた冷ややかな声に秋人が一瞬力を緩めた。その瞬間を直人は逃さない。ありったけの力で秋人を跳ね上げベッドの下に転がるように逃げる。そのまま近くにあったジャケットをひったくると、後ろも振り返らずに部屋を飛び出して行った。
 ドアの外から声を掛けた妹のきよみはあっけにとられてその場に立ち尽くしていた。それからハッと我に帰って部屋の中を覗き込む。くしゃくしゃにシーツの乱れたベッドの上に座り込んだ秋人が頭を抱えている。
「家の中で盛らないでよね、このホモ」
 軽蔑しきった声音にギロリと睨み返す。
「うるさい、邪魔すんな」
「ナオはあんただけのお兄ちゃんじゃないんだから」
 ふんっ、と鼻息も荒く、勝ち誇ったような顔できよみは出て行く。勢い良く投げつけられた枕は、きよみには当らず閉まりかけたドアに当り、その場に落ちた。
『ナオは? そう、友達のところに泊まるって?』
 一階のリビングにいた両親に尋ねたのだろう、聞こえよがしに大きな声で話すきよみの言葉が耳に入り、秋人は大きなため息をついた。
 秋人は特別直人への感情を隠そうとはしていなかったので、それがきよみには気に入らないらしい。あるいはきよみも秋人と同じように……?
 いずれにせよ、秋人もこの生意気で少しませた妹が煩わしくて、直人への感情に比べればそれはとても冷ややかなものだった。

 翌朝、秋人は朝食の時間になってもベッドを抜け出る気になれなかった。何もかもが憂鬱だった。このまま学校をさぼろう。掛け布団を深く掛け直して身体を丸める。
 誰かがゆっくりと階段を上ってくる。足音が部屋の前で止まると、控えめにドアがノックされる。秋人は応えない。
「学校、遅刻するぞ」
 声の主はそれ以上促すこともせずそのまま一階へと下りて行った。
 急に腹が減っていることに気付く。きっとダイニングテーブルにはいつも通り、秋人の分の朝食も用意されているに違い無い。ベッドの中で2、3度寝返りを打ってから、意を決したように秋人は跳ね起きてパジャマのまま部屋を出た。

 ぼさぼさの髪、眠そうな眼をこすり、けだるそうに秋人は、案の定朝食の並べられていたテーブルの所定の場所に着く。
 キッチンでは、およそその場に不釣り合いなすらりとした長身の人影が、既に空になった食器の後片付けをしている。スッキリと刈り上げられた黒髪ときりりとした目元が印象的なその横顔は、昨日の夜家を飛び出して行ったきりの直人を思い起こさせる。どちらかと言えば直人がこの人の面影を受け継いでいるのだが。
「起きたな。片付かないからさっさと食べなさい」
「きよみは?」
「もうとっくに出たよ。今何時だと思ってる?」
「……直人は?」
「帰ってない。友達の家から直接学校に行ったんだろう」
 特に寝坊を咎めるでもなく、淡々と答えてくれる。良い親に恵まれたものだと、声には出さないが秋人は思う。
「忍(しのぶ)は?」
 最後に呼ばれた名前に、それまで振り返りもせずに答えていた人影が顔を上げ、うっすらと微笑みを浮かべる。ウエストエプロンで濡れた手を拭きながらこちらに歩いて来るところを見ると、単にタイミングよく片付けが済んだだけなのかもしれなかったが、それ以上の感情が含まれているように秋人には思えた。
「まだ寝てる。いつものことだ」
「どうせ家にいても何もしないんだから、朝食ぐらいマコトの代わりに作ればいいのに」
「食うだけのお前が言うな」
 マコトと呼ばれた長身が呆れたように笑う。既に家を出なければならない時間を過ぎても、マコトは何も言わない。それどころかテーブルの向かいに座って新聞を広げ、くつろぎはじめている。学校に行こうともしない息子に興味が無いのかと言えばそうでも無いらしい。マコトもまた、普段なら仕事場に出掛けるだろう時間になってもその場に留まっていた。

 秋人の両親は自由業を営んでいて、歩いて10分程度の場所に事務所を構えている。休日は二人の裁量次第。幼い頃からそんな二人を見て育ったからか、(主に秋人に限ったことだが)気分次第で学校を休むことにあまり抵抗を覚えない。そのことを口うるさく咎めないマコトの存在は秋人にとって居心地が良かった。だからと言って完全に放任されているわけでもないのは今のこの状況で十分伝わってくる。
 あらかた皿の上のものが胃袋に収まり、二杯目のご飯を貰おうかどうしようかと悩んでいるとダイニングの扉が勢い良く開く。それと同時に少し寝ぼけたような柔らかな声が流れ込んでくる。
「おはよぉ、マコちゃん。今日はあったかいねぇ」
 背中まで伸びた栗色の髪が朝日を反射しながらふわりと揺れる。
「全然早くないだろう? 忍も早く食べちゃって」
 言葉に反して穏やかな口調でそう言うと、マコトは促すように隣のイスを引いた。フワフワとしたその生き物が当然のようにそこに座る。見守るのは優しいまなざしだった。毎日見慣れた光景とはいえ、毎度あてられる。物心ついた時からこの夫婦はこうだ。秋人はその様子に素直に感心していた。
「俺がこんななのは、こういう家庭で育ったからなのかな」
 ぽつりとつぶやく。妙に腹がふくれたような気がしてそこで食事を終えると、立ち上がり食器を片付ける。
「あれ? 秋人、いたんだ? 学校は?」
 マコトは放っておいてくれたが、忍はこういったことにはやや口うるさい。咎めるように唇を尖らせクリクリとした目でじっと見つめてくる。聞こえない振りをして秋人は二階の自分の部屋に戻ろうとした。そこでようやく、マコトが秋人に声を掛けた。
「こら、不良少年。何か言うことがあるんじゃないか?」
 穏やかだが、この声には決して逆らえない。一瞬上りかけた階段の足を止め、秋人は一瞬考えてからこう答えた。
「頭痛が治まったら学校に行く」

-Powered by HTML DWARF-