獅子転生



 小川の水面が、庵から漏れるほのかな明かりを反射して、キラキラと揺らめいていた。庵の中にいるのは、幻十郎とシャルロットだった。
 幻十郎は壁にもたれ、静かに杯を傾けている。シャルロットはその様子を飽きもせずただ眺めており、たまに杯に酒を注いでいた。
「……」
 手に持った杯に注がれる酒を見ていた幻十郎は、何を思ったか不意にその杯をシャルロットに突き出した。
「……飲めと言うのか、私に?」
 シャルロットは下戸ではないが、ワイン以外はほとんど口にしたことがない。正直言うとあまり気乗りしなかったが、彼が自分に酒を飲ませるなど今までになかったことだし、せっかくの勧めなので受け取ることにした。
「んっ……」
 こくり、と白い喉が動き、酒を嚥下していく。意外に強い酒だったらしく、喉の奥に熱いものが広がっていく。
「…ふぅ……」
 杯を短時間で干してしまったせいか、瞬く間にシャルロットの白い肌が、ほんのりとピンク色に染まった。
「う……強い酒だな……」
 体の力が抜けていき、シャルロットの体が傾いた。倒れ込んだ先には幻十郎がいた。しっかりと抱きとめられる感覚に、満足そうに目を閉じる。
 わずかに乱れた着物の合わせ目から、幻十郎の手が差し込まれた。
「あ……幻十郎……んむ……」
 そのまま唇を奪われた。舌を受け入れようと唇を開くと、さらに酒が流し込まれた。
「んく…」
 酒を絡めるように、幻十郎の舌が動き回る。
「はふ……あぁ……」
 濃厚な口付けのせいか、それとも酒のせいか、シャルロットがぐったりと体重を預ける。幻十郎の手が自分の帯を解いていくのをぼんやりと見つめ、幻十郎の行動を待つ。
「んふぅ……」
 秘所を這う手の動きに、陶酔したような声を上げるシャルロット。
「幻十郎……」
 彼を受け入れるように、シャルロットは両手を広げた。その腕に身を委ねるかのように、幻十郎はシャルロットの中に侵入していった。
「ん……んふうぅんんんっ……」
 シャルトットは、幻十郎の首にすがりつくように腕を回した。腕に力を込め、二度と離すまいとばかりにしっかりと抱きしめる。
(幻十郎、幻十郎、幻十郎、幻十郎っ、幻十郎っ、幻十郎っ!!)
 心の中で、何度も男の名を呼ぶ。それは、次第に声に出てしまっていた。
「幻十郎っ……あぁ、幻十郎ぅっ!!」
 やがて絶頂を迎えたシャルロットの意識は、白い霧に包まれるように遠のいていった。

「行ったのか……」
 シャルロットが目覚めた時、隣に幻十郎の姿はなかった。しかし、想像し得たことであったため、驚きはなかった。いつかは訪れることが、たまたま今日だっただけのことだ。
 戻って来ることはないだろう。
 幻十郎は羅刹のような男である。もともと、一つの場所に落ち着いていられるような男ではない。自分と共に一年を過ごしたことさえ、奇跡のようなことだったのだ。むろん、家庭の中におさまるような器でもない。
 どこへ行ったのかはわからない。強き者を求めてさすらうのか、覇王丸の命を狙うのか。シャルロットには、幻十郎を追いかけようという気持ちもなかった。彼の歩む道は、剣を捨てた自分が共に歩めるような道ではないだろう。
「別れの言葉も言わせてもらえないのか…お前らしいな……」
 のそり、と身を起こし、シャルロットは庵の中を見回した。幻十郎は身ひとつで出て行ったらしい。替えの着物、愛用していた徳利、食器、何もかもが幻十郎のいた時のままだった。
 そっと、幻十郎の着物に手を伸ばす。濃紅の着物を胸にかき抱き、匂いを嗅ぐかのように顔を埋める。
「まったく、ひどい男だ……」
 覚悟していたとはいえ、声が震えるのは抑えきれなかった。
 この庵の中で、幻十郎と過ごした時間、光景が、次々と胸の内に蘇る。最初は苦痛しかなかった。何度も逃げ出すことを考えた。それが、何時の間にか、ここが自分の居場所であるかのように感じられるようになり、幸福を感じるまでになった。
 牙神幻十郎は、粗野で、残酷で、乱暴な男だった。だが、共に暮らしていたシャルロットにとっては、かけがえのない存在になっていた。時折見せる、素っ気無さの裏の優しさ。それが、彼女にとって何よりも暖かかった。
 幻十郎がシャルロットに贈った品、青い花の彫り込まれた木製の櫛を手に取り、ゆっくりと自らの長く柔らかい金髪に通していく。
「私を……女にしておいて……」
 言葉の端々に、低い鳴咽が混じる。最近とみに緩くなった涙腺から、止めど無く涙が溢れ出した。かき抱いた着物に、その雫がいくつも染みを作った。
「うっ……うぁ……ぅぅぅぁぁああああ……」
 シャルロットは泣いた。幻十郎にもらった櫛で髪を梳かしながら、いつまでも泣き続けた。


―――四年後―――

「かあさま―――」
 一人の少年が、右手に持った棒切れを振りながら、長身の女性に駆け寄った。年の頃は三、四歳。どことなく幻十郎の面影を宿しているが、その髪は鮮やかな金髪。濃紅色の着物を着て、人懐っこい笑みを満面に浮かべている。
 長身の女性――シャルロットは少年の前にしゃがみこみ、優しく両手を広げて待ち受ける。
「あっ!」
 母親の目の前で、少年が転倒した。地面に埋まった土に、足を取られたらしい。地面に倒れたまま、泣きそうな顔で救いを求めるように、シャルロットを見上げる。
「十郎丸、自分でお立ちなさい?」
 シャルロットは静かに告げた。決して厳しい口調ではないが、甘やかすような気配もない。十郎丸と名づけられた少年は、唇を噛みながらも立ち上がり、着物の袖で汚れた顔をぬぐうと、確かな足取りでシャルロットのいる場所まで到達する。
「あなたは強い子ね、十郎丸」
 シャルロットは、聖母の如き優しい表情で、愛しい我が子を胸に抱き止める。
(幻十郎……私はあなたの子供を産みました……)
 シャルロットは、幻十郎の着物で作った、十郎丸の着物を撫でながら、心の中で語り掛ける。
(あなたは怒るかもしれない……でも見て、あなたと違って、本当に素直な良い子に育って…。あなたはもう、私の元へは戻ってこないでしょう。だけど、私の元には十郎丸がいるわ)
「かあさま……どうしたの?」
 十郎丸は、自分の顔に滴り落ちてきた、母親の涙に気が付いた。心配そうに、シャルロットの青い目を覗き込む。
「…嬉しいのよ、十郎丸。母様は、あなたを授かったことを、本当に幸せに思うわ」
 母親の言葉の意味が理解できない十郎丸は、ただシャルロットの青い着物の胸に、幸せそうに顔を埋めた。
「かあさま、くるしいよ…」
「ごめんね、十郎丸」
 我が子を抱き締める腕の力を緩め、シャルロットは十郎丸を抱き上げた。
「愛してるわ、十郎丸……」
「じゅうろうまるも、かあさまあいしてる!」
 嬉しそうに叫ぶ十郎丸に、シャルロットは幸せそうに目を細め、優しくその頬に口付けた。
「さあ、中に入りましょう。お腹空いたでしょう」
 シャルロットは十郎丸を抱いたまま、庵の中に入っていく。その途中、十郎丸に見えないように、そっと着物にも口付けた。
(愛してるわ、幻十郎……) 

 良く晴れた春の日。庵の裏手では、小川は四年前と同じように流れていた。





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