なんか。
なんだろうな。
人は誰でも不安って抱えてるじゃん。
それをさ。
それを、なんだろう。
「そういうこと聞くのってウザイよね。」
とか言う雰囲気を作っちゃうのってどうなんだろうね。
誰かにとって常識的なことでもさ、
他の人にはそのことをどういう風に誰に聞けばいいかもわからない場合だってあるわけじゃん。
なんかさ。
「その場の空気を読み取るのが美徳」
みたいに言うのってさ、
どうなんだろう。
かっこいいのかな。
そりゃ読みとれるならそれに越したことはないけどさ、
読みとれない人をバカにするのはかっこわるいよね。
わかってるなら教えてあげればいいじゃんね。
なんで影でこそこそ笑うんだろうね。
まぁね。
「わからないんだから教えてくれて当たり前でしょ。」
って態度の人には死んでも教えたくないけどね。
まぁ結局そうやって自分の中に「暗黙の了解」作っちゃってる私もアレだけどね。
今ではさほどこだわりのあることでも無くなった「文章を書く」と言う行為に関してですが、こだわりが「さほど」無くなったとは言え、もともとテキスト系(なかでもいわゆる雑文界と言うくくり)で本格的なサイトづくりを始めたせいか、自分が読み手に回ったときに、日常を純粋に書き記しただけの文字通りの「日記」と、ちょっとひねりの入った可愛くない(※褒め言葉)雑文系のテキストと、同じように「日記」として扱われている文章でも頭のなかに分類を作って分けて考えてしまってたりします。
同じように、本人が「これはコラム(またはエッセー等)です」と主張していても自分フィルターで「これは日記」と分類しているテキストページがあったりもします。また、もちろんその逆もあります。
別に分類方法に基準があるわけじゃないし、あったとしても人に自分の基準を言って回ろうと思ってるわけでもないので「個人的にそう思っている」という、ただそれだけの話なのですが。
自分の文章は人にどう見られているのかな。
…と言うことには、ほんの少しばかり興味あるところ。
実際はどうであれ、楽しみに見ている人にしてみたら毎日更新されてるに越したことはないのだろうか。そういう存在であったなら嬉しいのだけど。
そうだとするなら、分類なんて作業効率の問題以上の意味は持たないものなのだとは思う。
なんとなく。
リハビリってんじゃないですが、ここんとこずっと掛かり切りだった用事がひと段落したんでなるべく日記としての体裁を取り戻そうかしらなんて思ったりなんかしております。三日坊主でなきゃいいのですが。(まるで他人事のように。)
アメリカでのテロ事件からだいぶ経ちましたね。
あの事件以来さまざまなサイトでさまざまな意見が飛び交いました。
ニュースでも色々と情報が交錯して、ただ、ニュースを紹介する機関やその属性によっていくぶん私感が入ってるんじゃなかろうかと思う報道もあったような気がしないでもないですが。
こういう事件は難しい。と改めて思うのは。
あの事件の犠牲になった人々やその家族のことを思うとどうしても感情的になってしまいます。それは私も同様で、犯人を許せない、という気持ちはあったりします。
しかしながら、実行犯の立場で考えた時、宗教やその他いろいろな要因があって、本人たちはそうせざるをえなかった、そして彼らにとってそれが正義であったのだと、そう解釈してあげないと、自らの命を投げ出してまで誰かのために何かをした彼らが浮かばれない気もしないでもなかったりなんかします。
そんな非道な人たちに同情すること自体がどうかしていると思われるかも知れませんが。
日本にも昔カミカゼ特攻隊というのがあったじゃないですか。
なんといいますか、実行犯にだけは同情していいような気がするんです。
しちゃいけないような気もします。わかりません。なんだか難しい。
多分どこか高いところから事件の一部始終を見学してほくそ笑んでる人がいるんだろうな。
誰かの利益のために無関係の人々が犠牲になっている、そんな状況だけは許しちゃいけない。それだけは確かだと思います。
そしてこういう事件は風化させちゃならんのです。